イルカの広場
梅光学院大学文学部日本文学科 文芸・創作コースの教員・学生が執筆したリレー小説を公開しています。

『おうーい、カモメよ』をご愛読の皆様へ。

梅光学院大学は春休みに入りますので、イルカの広場も本日より春休みに入ります。
再開は2010年4月9日の予定です。

今年度も、ご愛読ありがとうございました。

新年度も『おうーい、カモメよ』をどうぞよろしくお願いいたします。

平成22年 2月2日 スタッフより

   海の見える『帆立屋』にて 2

野中蝶子

本当に梅西郁美は静かな子だったと蝶子も思う。しゃべることもめったにないので、彼女がどんな声を出していたかまじまじと考えると、急に思い出せなくなってくる。

窓辺にうっすらとカーテン越しの陽が射しているような。たいてい微笑んでいた。無口で優しい子だった。県下のどこの小学校に勤めているんだったか。教員ではない。事務室でひっそり机に向かっている姿が浮かぶ。

「でもこの『めんどりの日』を読んで、アッて思いました。梅西郁美は変わり始めていますよ」

上山千春が言った。

「どんなふうに」

「人間はまだ出てこないけど、きっともうすぐ登場する予感がします。だってめんどりが卵を産んだんですもの。それを温め始めたんですからね」

千春の声に力が入ると、

「しかし無精卵からヒヨコは出てこないよ。あれは玉子焼きの材料で、命のないものだろう。めんどりの幻想が生んだ実態のないものだからね」

と森内が横槍を入れた。

「あら先生」

と千春が背筋を伸ばした。

「幻想だって何だって、卵は産まれたんですよ。実態のない幻想だけで本物の卵をコロッと産み落とすんですよ。それだって大したものだって、私思います。産んでみろっと言われても、私産めませんもの。ねえ、蝶子先生」

千春の小声が聞こえたらしく、向こうの席の女性客三人がクスクス笑っている。

「まあまあまあ静かに」

と蝶子が声を細めた。

「梅西は変わり始めています」

「ええ。そうでしょうね。きっと」

蝶子も言った。今頃どこかの小学校の事務室で、小さなプラスチックの弁当箱を開いている梅西郁美の姿が浮かんでくる。大学にもこまごました手作り弁当の持参だった。

「ところで先生」

と千春は思い出したような顔になる。

「この間、保育学部でその有精卵を育てさせる授業をしたとき、びっくりしました。ほとんどの学生が、卵の黄身がヒヨコになると信じてたんです」

おやまあ、と蝶子も呆れた。ヒヨコになるのは黄身の上にのっている胚の部分だけだ。黄身はそのヒヨコが成長するまでの栄養だ。

「それで私、思ったんです。『めんどりの日』で主人公が天ぷら衣を作るため、ボウルに黄身を入れてかき混ぜるでしょう? あれって、命をかき混ぜてるんじゃなくて、命を養うまわりの栄養をかき混ぜてるってことなんですよね」

そうかもね、と蝶子はうなずいた。

「だったら私たち教員が学生にかかわるのも、彼らの創作にかかわるのも、黄身をかき混ぜてるのに似てるかもしれませんね」

と千春は食べ終えた箸を置いてニコッとする。

「有精卵の黄身をせっせとかき混ぜてるんです」

「それで何が出来るのかしら?」

「人間。にわとりじゃありません」

「ほんと?」

「そのつもりですけど……」

声の尻尾が、細くなった。

(了)

※続きは4月9日公開予定

   海の見える『帆立屋』にて 1

野中蝶子

「なるほど、SFでもファンタジーでもない、どこにでもありそうな日常を書きましたよね」

と森内砂男。

「しかし、ありそうで、なさそうな、やっぱりちょっと変な、梅西らしい短編です」

言いながら森内は煮魚定食に箸を付ける。

「いなくなった妹の代わりに、めんどりが部屋の隅にうずくまっていたなんて……。いったいどうやってこんな場面を、梅西は思いついたのかしら」

と上山千春。

「それが結構みょうなリアリティがあったわねえ。妹とめんどりが重なって、何だかほろっとなる」

と野中蝶子。二人は今日はそろってフグ雑炊を注文し、湯気を吹き吹き啜り込んでいる。

蝶子が、これ面白いわよ、と卒業生・梅西郁美の作品を森内と千春にまわしたので、本日の昼食兼創作ゼミのミニ会議は『めんどりの日』の合評会になったのだ。

「にわとりが卵を抱く様子って、何かこう、生きものの根源的な姿みたいなもの、見てるような気がしない?」

と蝶子。

「むろん動物はみんな子孫を生むけど、にわとりの卵を抱く姿は、一番シンプルにそれを現してるみたいじゃない? 卵イコールいのちね。手足のある赤ん坊なんかより、ただの白くて円い卵のほうが、いのちの形としてシンプルで、象徴的な感じがするわ」

「で、その卵を産んだめんどりは、妹のアパートに一羽だけでいるんだから、結局、無精卵ですよね。カラッポの卵」

と千春。

「その命のないカラッポを抱いてるめんどりと、帰ってこない妹が静かに重なる。不良の妹がめんどりと似てくるところは泣かせます」

「シンボリックで、いい光景ね」

「しかしめんどりとか、卵とか、女性の排卵が語られているのに、音のない白い世界って雰囲気がします。女の子の体温はあるんだけど、体臭が薄いっていうか。その希薄さもまた、僕なんかから見ると、こういう年頃の女の子の感じ、しますね」

と話の内容に森内が気を配り、向こうの席の客を意識して小声になった。

「でも結局、妹はこの後どうなるのかしらね」

蝶子が帰ってこない娘を案じるような顔になる。

「帰るのか、帰らないままなのか、どうなるのか、尻切れトンボですね。この終わり方でいいんでしょうかね? 小説として」

三人はしばらく黙って食べた。

夢の中で妹がめんどりになって卵を抱いている。その卵は妹のことだからきっと有精卵だろうと、姉は想像する。いのちの入ってる卵だろうと。

するとこれは帰ってこない妹への、静かな応援歌にもなりうるだろう。それならもうここで終わってもいいかもしれない、と蝶子は思う。

すると、雑炊の湯気が当たる首筋をぽりぽり指でかきながら、千春が思い出すように語り始めた。

「梅西郁美が文芸部にいた一、二年の頃、私は顧問をしてたんです。そのとき彼女の作った詩集を見たのを覚えてますが、詩に出てくるのはイルカや小さい魚やカモメくらいでした。背景は海と空と雲だけ。色は白と水色の滲んだような世界で、人間が全然登場しないんです。そして黄ばんだそのノートの中では、音も立たず、何もかもが交わらず、離れず、触れ合わず、止まっていたんですよ」

千春の背中越しに、遠いタンカーの船影がゆっくり動いて行った。

(続く)

※続きは2月2日公開予定

   めんどりの日 8

卒業生  梅西郁美

夜になりましたが、妹はいっこうに帰ってくる気配がありません。

私はテーブルに設えた夕飯に、ラップをかけました。揚げたては、あんなに美味しそうだった天ぷらは、すっかり萎びており、ご飯からたちのぼる湯気は消えていました。

私は、妹のアパートでひとり食事をする気にはなれません。ぼんやりとテレビを観て過ごしました。めんどりが、あたためるのをやめて放り出したタマゴが、ぽつんとベッドの上にありました。

いつしか、私はテーブルにもたれかかり、眠っていたようです。そして、短い夢を見ました。

……夢のなかでも、私は、妹のアパートにいました。ふり返ると、昼間、にわとりがタマゴを産んだベッドの上に、妹がうずくまっていました。一体、いつ帰宅したのだろうと思いました。

「香里。連絡もしないで、どこに行っていたの。父さんも母さんも、心配しているのよ」

私が話しかけても、妹の返事はありません。床に彼女のバッグが投げ出され、シールを一杯貼りつけた携帯や化粧道具が転がり出ていました。

「話したくないのなら、今はいいわ。それより、夕飯まだでしょう。天ぷら作ったわよ」

そう言いながら私は、冷めた天ぷらを電子レンジであたためようとしました。ようやく夕飯にありつけるのだと思うと、おなかが空いてきました。

しかし、どのような言葉をかけても、妹は顔をあげようとしません。両の膝を抱くようにして、うずくまっています。

どこか具合が悪いのかとのぞき込むと、妹がおなかの辺りに、タマゴを一つ抱えているのが見えました。それは昼間、アパートにいるめんどりが産んだタマゴに、大きさや色がよく似ていました。

でも、私はそのタマゴを産んだのが、妹に違いないと確信しました。人間がにわとりみたいにタマゴを産むなんて、なんとも奇妙ですが、夢の中ではどんなことも起こりうるのでした。

私は、妹があたためているタマゴを、有精卵だろうと思いました。毎月、実らなかったタマゴを排出してしまう、私とは違い、妹にはいつも、たくさんの恋人がいました。だから、孵化するタマゴを産むことが、彼女にはできるはずでした。

妹の茶色い髪が傷んでもつれています。ずっと荒んだ生活をしていたのかもしれません。でも妹は静かに目をつむってタマゴをあたため続けています。こんなにいじらしい妹の姿を私は初めて見ました。

タマゴはいつ、どんな風に孵るのでしょう。私はタマゴの中の新しい命に、思いを巡らせました。

どこかで携帯が微かに鳴っていました。それが、自分のジーンズのポケットから聞こえているのだと分かると、私は夢から覚めました。携帯には実家の母からの着信が連なっています。妹の安否を知ろうと、かけてきたようでした。

夜更けのアパートに、妹の姿はありませんでした。テーブルには冷めた天ぷらが乗っていて、ベッドには、にわとりのタマゴがひとつ、転がっていました。めんどりは本棚の上で、羽に首を突っ込んでうとうとと眠っているようでした。

私は、案じている母に何と言って電話をしようかと、途方にくれて窓に視線を泳がせました。

外は濃い闇が降りていて、日中、沢山の布団が干してあった向かいの団地には、ただもう、数え切れきれないほどの明かりが灯っていました。

(了)

※続きは1月29日公開予定

   めんどりの日 7

卒業生  梅西郁美

私は小さな天ぷら鍋に、衣にひたした海老を投じました。油の中で海老はすぐに赤く染まり、ぽんぽん音をたてながら弾きました。身を捻じって、暴れているみたいです。

火力を絞ると、海老はおとなしくなりました。細かい泡に囲まれ、浮かんでいます。私は天ぷらを油から引きあげながら、妹のアパートで、ひよこにならない無精卵を産んだめんどりのことを、気の毒だと思っていた自分に、呆れました。

めんどりは、とても立派です。オスのにわとりがいなくても、あたたかく、つやつやしたタマゴを、産み落とすことができるのですから。それに比べ、人間の女性の排卵は、何だか寂しいように思います。恋人のいない私などは、なおさらです。今月も、私のからだの中に用意されたタマゴは、実ることなどさらさらなく、排出されていく運命にあるのです……。

人も、にわとりみたいに、タマゴを産むことができたらいいのに、と思いました。恋人がいなくても、毎月、私は私だけのために、白いタマゴをひとつ産み、あたためて守りたい気がしました。

小さな天ぷら鍋にはった油が、半分ほどになるころ、ようやく全てのタネを揚げ終えました。天ぷらを皿に盛り付けながら、妹と二人で食べるには多すぎる量だと思いました。つい、実家で暮らしていたとき、大皿に盛った天ぷらを妹と競うようにして食べていた感覚に、惑わされていました。

天つゆを用意し、炊きたてのご飯もよそいました。大根おろしや生姜などを、付け合わせたいところでしたが、スーパーで買ってくるのをすっかり忘れていました。私は、テーブルに夕飯を設えました。これで、いつ妹が帰ってきても大丈夫です。

夏の太陽は、もう沈んでいましたが、ぼんやりとした明るさが、まだ空を包んでいました。街頭がともり始め、昼間、妹のアパートを探す際に間違えて入った細い路地に、自転車がよろよろと消えていくのが見えました。

影ばかりになった鳥たちが寝ぐらへ帰るのか、空の高いところを渡っていきました。私は窓辺に吊るしていた妹の洗濯物を取り込みながら、知らない町で独りで過ごす夕暮れを心細く思いました。

窓から入る風にのって、焼肉のにおいが流れてきました。アパートのどこかの部屋で焼肉を囲んでいるみたいです。あのスポーツカーに乗ってやってきた、大学生の男の子たちかもしれません。

もう日が暮れてしまったのに、妹は帰ってきません。財布は持って出ているようでしたが、まだ学生で自由になるお金も多くはないはずです。おなかを空かせてはいないでしょうか。テーブルに並べた天ぷらや、妹の小さな茶碗からたちのぼる湯気を眺めながら、私は彼女を待ち続けていました。

妹のベッドの上にいためんどりが、本棚にとびあがりました。夜になり、眠る時間が近づいているのでしょう。夏布団を寄せて作った巣のなかに、白いタマゴがひとつ、転がっていました。

しかし、めんどりはもう、それをあたためようとはしませんでした。

(続く)

※続きは1月26日公開予定